2018年5月5日 ホメオパシーを使う人たちのお祭り、とらのこコングレスにて福岡から登壇いたしました。

私がホメオパシーと出会い、、ホメオパスになったいきさつについて語ってます。

長文となりますが、ぜひお読みください。

【人生を導いてくれたホメオパシー】

もし、ホメオパシーに出会ってなかったら、私の人生はどうなっていたんだろうと、考えるとぞっとします。

私のホメオパシーとの出会いは、第1子の長男の妊娠出産のときでした。
その長男も、今年の4月に晴れて高校生になりました。

ホメオパシーとの最初の出会いは、その子を妊娠した今から15年ほど前のことです。
それまで不摂生な暮らしをしていたにもかかわらず、出産は自然な形を望んで、助産院の門をたたきました。
その時の助産師の先生がホメオパスの勉強をしていたことから、私もホメオパシーを知ることが出来ました。
しかし、やはり今考えてもあの不摂生の生活からは自然なお産というわけにもいかず、その時は助産院での出産はかなうことは出来ませんでした。

出産後にはまた、普通の生活に戻ったわけですが、ベビーの息子はこれも今考えるとやはりなるべくして、中耳炎を繰り返すことになります。
フルタイムで勤務していた私は息子を連れて、毎朝耳鼻科に通い、それから保育園に息子を預け、職場に向かうという生活を続けることになります。
その間に息子は抗生物質を摂り続け、そのうちに使える抗生物質の種類がなくなる懸念が出てくるまでになってしまいました。
途方にくれた私は息子のために介護休暇をとることにしました。
中耳炎の原因になっている風邪をひかせないという状況を作るように、小児科の先生の指導で保育園を休むことになったためです。

その介護休暇中に、妊娠の時に門をたたいた助産師の先生のところに遊びに行きました。
そこで、助産師の先生に

「ポースティーラ(セイヨウオキナグサのレメディー)を使ってみたら?」

とアドバイスをいただき、ホメオパシーに再会することになったのです。

その頃は福岡の平和にセンターがあり、すぐに向かい、そこでレメディーキットとガイドブックを購入しました。
夜中に耳が痛くなって、目が覚めて泣き出す息子にポースティーラを1粒あげると、スッと眠りだしました。
毎朝通い続けた耳鼻科も、先生に見せると翌日また来るように、という指示がない!!
かわりに、「はい、いいですね」という言葉に本当にびっくりしました。

これ、すごい!!

相談会にもかかり、冬だったにも関わらず、とびひにかかるという好転反応も経験しました。
のちにとびひは抗生物質の害を排泄するための身体の反応であることを知り、とても納得しました。

中耳炎だけでなく、日常の育児のあらゆる場面において、そして例えば発熱、咳、怪我、虫刺され、鼻血など...お薬を摂らなくても、レメディーで十分に対応することが出来るのです。
しかも、あれだけ発熱を繰り返していた息子がどんどん強くなっていく。
もう本当に面白くて、ホメオパシーインジャパンや、キッズトラウマのガイドブックを読み込みました。
とらこ先生の講演会にも足を運び、今までの不摂生な生活を反省しながらも、息子の病気があったからこそ、いままでの生活を見直すいい機会になったこと、また、ホメオパシーに出会うことができ、あの病気が感謝すべきありがたいものであったことすべてが腑に落ちるものでした。

第2子の妊娠出産の際には、ホメオパシーを自分で使うことを許してくれる産院を探し、ホメオパシーをご存知でなかった担当助産師長をびっくりさせるくらい良いお産をすることが出来ました。
その助産師長さんは私の持っていた「ホメオパシー的妊娠と出産」の本の表紙をコピーされ、産院の入院されていた妊産婦の方たちに私の出産の様子をホメオパシーのことを含め紹介されました。
その頃にはホメオパシーは、すっかり私や家族の生活の一部になっていて、私はホメオパスになりたいと思うようになっていました。

そして、ホメオパシーの学校に通うようになり、育児や仕事を続けながら、ホメオパシーの勉強を本格的に始めました。
ホメオパシーを学びたいと同じ時期に志した仲間との学校生活は本当に楽しく、刺激的で、目からウロコが落ちるような、今までの観念を覆されるような学びの数々でした。
それだけでなく、学びが深まるにつれて、私の心の中にざわめく事が浮上してつらいことも出てきました。

私の生い立ちの中で、物心ついた頃にはすでに父はうつ病でした。
家は商売をしていたので、母はうつ病の父を抱え、幼い子どもを育てながら、必死で切り盛りをしてきたと思います。
その中で、兄も私も自分を出すことを無意識のうちに抑えて育ってきました。
母に負担をかけることは許されませんでした。
母は高校を卒業後、すぐに結婚したばかりにこんな目にあったという思いが強く、勉強して、高い学歴がないとつまらないとプレッシャーをかけてきました。
それは母にとっての善でした。
もちろん反論もできず、ただただ母の負担なく、いい子でいることが私たち兄弟にとっての善でした。

父は調子がいいときもありましたが、ほとんどが廃人のように過ごしていて、父の存在は私にとっても嫌なもので「働かざる者食うべからず」という価値観もこの時にすでにあったと思います。
父と母は夫婦の仲は悪いもので無かったのですが、この状況でしたので衝突することはしばしばありました。
私はそんな時は布団の中で息をひそめて、ただ耐えていました。
ホメオパシーの勉強やインナーチャイルドの学びを進めていくと、何十年も忘れていたことが浮上してきて本当に辛かったす。
私が自分の育児の中で、子どもをほったらかしにし、馬車馬のように働くような本質を、ホメオパシーを通じて、自分を癒すことが必要だよ、と私の子どもたちは、特に長男は身をもって私に教えてくれるために生まれてきてくれたんだと思えてなりません。
私は布団の中で息をひそめて耐えている幼い私に寄り添うことを続け、今までの価値観を疑い、解放することで、自分を大切にするという感覚が戻ってくると、子どもに対しても、大切にできる感覚が確かなものになってきたように思われます。

私の人生で、何年も何年もかけて固く閉じてきた呪いのような箱を開ける必要を教えてくれた私の子どもたち。
その箱を解放し、私自身も今までより本当に楽に生きられるようになりました。
長男も高い学歴こそが善という価値観を持つことなく、自分のやりたいことを探せる環境を作ってくれる学校に進学することが出来ました。

15年前のあの時、助産師の先生を通じて、ホメオパシーと出会えたことで、何年も前の辛かった人生と繋がり、今をより良く生きることが出来る。
さらに、とらこ先生からさまざまな気づきをいただき、家族みんなが本来の自分を生きようとしていられることは本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
少しでも多くの人がホメオパシーと出会い、身も心もきれいになり、本来の自分を生きられるようになることを心から願います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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